銀座今昔ヒストリー(写真は一部借用転載)

明治の頃の銀座通り

先代の服部時計店。この頃の銀座は、大した商店もなく、都電と馬車が一緒に往来を走ると云う光景が、日常的に見られた。

昭和五年頃の四丁目交差点。手前三越、その奥松屋。当時木村パン屋は三越の場所にあったとか。

終戦直後の銀座。ほとんど焼野原、辛うじて建っているビルも、骨組みと一部の外壁のみと云う様相・・その後、地元の人達や銀座で一旗と思っている面々が、旧陸軍の使用していた弾薬箱などで、バラックの小屋を作り、築地が近い事も有り、屋台宜しく食べるものを売り始めた。今は成功店となり、有名な老舗ともなっている。

昭和30年代の銀座五丁目。 歩道狭しと露店、左手に和菓子の名店だった月ヶ瀬が見える。

 

戦後復興しつつある、銀座尾張町交差点。この頃戦火から逃れ、まともに建っていたのは和光服部時計店だけだった。

銀座五丁目あずま通りから東に入った横丁、三原小路。粋な小料理屋が軒を並べていた。

戦前の松坂屋。この辺りでは異彩を放っていた。

これっていつ頃?欧州クラシックカーばかりが銀座の街を。 遠くに見えるは、有楽町の日劇のよう・・・

どこぞの街を都電が走る。行き先が銀座と書いてある。 今、考えると電車の終点が銀座と云うのも凄い。交通事情からして、今では考えられない。

戦前の晴海通りは

こんなにも、広かったのか!

此処は当時銀座で一番有名な喫茶店パウリスタ。後に流行り言葉となった、銀ブラは此処から生まれている。

このお店・・現在も営業しており、私もたまに行くが、相変わらず、美味しいコーヒーが飲める店。

 

最近のパウリスタ。

先ほどのウンチクの

続き・・此処のコーヒー

はブラジルコーヒーで

【銀座でパウリスタのブラジルコーヒー】を飲む事から、銀/ブラ・となったとか。みなさ~ん・・決して銀座ぶらり旅ではないですよ(笑)

晴海通りを走る都電15番線。写真の右手方向が月島8丁目

現在の勝どき2丁目、この電車はそこが終点だった。

戦後の銀座のランドマーク

服部和光と不二越ビルの

森永広告塔。

戦後復興目覚ましい銀座通り。  7丁目から京橋方面を望む。  左手には今は無き小松ストアーが僅に・・

この銀座通りはR.1号・R.15号で札の辻をり、新橋・浜松町を経由して品川駅へと疾走する。ちょうど現在の銀座コアビルの前辺りでフォーカス。

二丁目にある文房具の大店、伊東屋。 創業祭でのイベントなのか、大売出し?

昭和35年頃の4丁目交差点

三越の方から・・工事中は三愛ドリームセンター。後に此処は銀座のランドマークの様相を呈して来る。

その先に見えるは、不二越ビルの地球儀に乗った森永製菓の看板。

いつの時代なのか?二階建てばかり並ぶ銀座通り。ランドマークらしき物は何も、見当たらない。 それにしても、このアングル、何処から撮ったもか?ちょっとフ・シ・ギ・・・

30年代の夜の銀座。晴海通りを西銀座方面から東銀座の方を眺める。この頃の東京は電力不足。今とは比べ物にならない程暗かった。

東京オリンピック開催する

前までの夜の銀座5丁目界隈。 まだ3階建ての建物が主流だった。  左手奥には、今は無き小松ストアーが見える。

ご存知、勝鬨橋。当時日本

でも数少ない、大型の跳ね橋

朝7.00と午後の3.00に開閉

する。東京湾から貨物を積んだ

大型船はこの上流の永代橋までは運搬が出来た。その後交通量が増えた事と、39年のオリンピックに合わせて、隣に佃大橋が出来た。それに伴い、その年を境に二度と橋が開く事はなかった。

昭和39年頃、みゆき族なる

若者現る。 4丁目の三越の

近所ヴァンジャケットの店が、出現。  オーナーはこの時代の寵児、石津健介氏。アイビールックと云うファッションに身を包んだ若者が、連日押しかけ店内は足の踏み場もないと云う状態・・因みにこのみゆき族と云うのは、5丁目と6丁目の間の通りがみゆき通りと云う名前・・そこからの命名である。

30年代前半の銀座この頃までは、 この辺一帯は尾張町と呼ばれており、江戸時代には尾張徳川家の上屋敷があった所だそうな。 高い建物はまだ幾つも無く、全てが2~3階建てだった。画面右側の低層建物は40年代に入り、殆んどが9階建てのになった。銀座コアはこの跡地に建設された。

此処は、新橋一丁目。 後ろの橋の様な道路はオリンピックに間に合わせる為に突貫工事した高速道路。 その下には江戸城の外堀だった、運河が通っていた。 先に見えるのは、キャバレー太郎で有名なハリウッド。その昔、大分お世話になりました。

昭和42 年12月9日をもって銀座界隈を走る都電は全て廃止になった。 この時の軌道上の御影石を再利用する形で、歩道を拡張整備した。その以前は、歩道の広さは今の半分しかなかった。

晴海通りの地下横断歩道通路。元々は江戸城の堀だった所。 上に橋があって、その名を三原橋。平成26年に最後の一軒だった店が立ち退いて、完全閉鎖となった。 この映画館はポルノ館。その手前には、名画座があった。

世の中高度成長の時代に入り掛けだったけど・・地下鉄の鐡の字が・・古っ!

昭和40年頃になると街並みも落着いて来る。

小生・最も好きなワンショット!

これマクドナルド初期の頃のハンバーガー。向かいのビルは銀座三越。此処の角地にマックの一号店は出来た。ほぼ時期を同じくして歩行者天国がスタート。その頃はサンデープロムナードとか云ってたなぁ・・

ただ、この出店に関しては銀座商店街、揉めに揉めた。

昔はアイスクリームと云えば、ヴァニラアイス。それも錫でメッキをした器が定番。 食後のデザートとしては、一押しでしょ、やっぱり・・・

五丁目、銀座通りから東に一本路地に入ったあずま通りにある、トリコロール本店(フランスの国旗なのに)戦後間もなくの開業だそうで、聞く処によると、珈琲の焙煎メーカーだったKey珈琲の直営1号店とか。

 

4丁目の交差点脇に鎮座

する三越のライオン像!

行き交う人々にガン付け

でも、しているのかな。

十代の頃、足しげく通ったシャンソン喫茶銀巴里。 職場が50mと離れていなかった事も有り、後に有名になった歌手の息使いすら聞こえて来るほどの近くでステージを楽しんだ。  この頃のメインエンターティナーは戸川昌子・若き日の金子由香利・三輪明宏・長谷川きよし・くみこ等々

1990年にクローズするまで

40年近く数々の歌手を排出

して来た。 現在はビルに生まれ変わり、痕跡を残すかのようにひっそりと、碑だけが建っている。  因みにこの時代、あしべ・ミマツと云ジャズ喫茶が銀座を席捲していた。銀巴里はそれらとは一線を隔す。

若き日の三輪明宏。当時は丸山明宏と云っていた。付けられたキャッチネームがシスターボーイ・・主にフランスのシャンソンをカバーして唄っていたが、

メケメケとヨイトマケの歌が発表され、そこから火が付いた。この頃にはまだ10代の青江美奈も出演していて、銀座の歩道をローヒールで走っているのを、よく見かけていた。

中クラスのクラブ。昔は当然の事ながら、カラオケなんてない。 この様に、ピアノで弾語りをしたり、客がこの前で歌ったりした。 先生と呼ばれる人が時間ごとに、数件のクラブを掛け持ちしていた。

東銀座のランドマーク歌舞伎座。徳川の初期の頃には、人がこの地域に集まりだし、2つの芝居小屋があったとか。 その後それらがりまとまって、現在の歌舞伎座になったとか・・・

東銀座一帯は昭和30年代頃までは木挽町と呼ばれていた。  大きな木を大鋸で切る木挽き職人たちが多く住んでいた事からの命名だろう。

銀座の尾張町、木挽町ともに残して置きたかった町名である。

銀座通り2丁目に立つ発祥の地の碑

1617年に幕府の銀貨幣の鋳造所としてこの地に建立。  その後日本橋蠣殻町に移転したが、小判鋳造の金座とともに明治2年、全て廃止となる。しかし町名だけはこの地に残り現在に至る。  おかげで日本全国に○○銀座と云う名称は健在だ。

早朝のみゆき通り。

菓子屋の老舗、銀座風月堂。

ゴーフレットが有名である

高級フルーツショップ

千疋屋。パーラーも併設している。 値段は高めだが、間違いなく美味い!だが・・ドリアンだけはどうしても食べられなかった

ミシュランガイドブックで有名になった、お寿司の老舗・数寄屋橋次郎。 少生のような凡人には巷の寿司と此処の寿司の違いがわからない。 美味いには違いないだろうけど・・薄っぺらな財布がそっぽ向く。

あんぱん発祥の地。キムラヤ総本店。4丁目の山野楽器店の隣にあります。プライドを持ってるせいか

とても美味いあんぱん・・

新装なった三越銀座店。新館9階にはオープンカフェがある。 ここでcafeを飲みながら晴海通りの雑踏を見ているのもなかなか・

2丁目から新橋方面を見た夜の銀座通り。

もう一丁・・

3丁目松屋前。

 

銀座ランドマークの一つ三愛ドリームセンター。開業は昭和37年。 この社の創業者市村清翁は昭和の傑出した経営者。リコー化学を始め、三愛石油、婦人服の三愛商事、西銀座デパート等、複写機のリコピーは最大のヒット商品である。

8丁目高速道路の下を新橋に向かい左側に鎮座するには、銀座柳の碑。

ひと昔前の地下鉄銀座線

日本で一番古く、当初は

浅草・上野間だった。 また、地上から一番浅い所を走っている事も有り、駅から地上までのアクセスがとても便利。

ここが歌舞伎座正面右手奥の路地を入ると美味しいビーフシチューの店がある。

歌舞伎座裏のビーフシチューの店。銀之塔(フランス語でトゥールダルジャン)だって。(笑)鴨料理で有名なフランス三ツ星高級レストランと同じ名前です《勇気あるね》

でも此処のシチューとっても美味しいんです。

このようなセット料理で注文します。 因みに、写真のようにすると、3700円・・お昼にしてはちょっといい値段かな・・

小生・・かつてはこの店に嵌りました。 なにせ、主たる商品は3種類しか無い。 しかし、どれも美味いのだ!歌舞伎座が近い事も有り、俳優さんからの出前も入る。

交詢社ビル・・銀座6丁目に位置するが、此処の前の通りを、交詢社通りと呼ぶ。 明治の初めに福沢諭吉の提唱により立ち上がった。 日本初の実業家社交クラブである。当初は慶応義塾のОBが中心だったとか。

昼間の並木通り。

夜の並木通り。

サラリーマンのメッカ、新橋烏日比谷口:別名SL広場。  よくテレビの報道番組等でサラリーマンに街頭インタビューが行われるのがこの場所。

新橋駅烏森口、

このアーケードを抜けるとユリカモメの乗り場が有る

銀座コリドー街から

千代田区日比谷に抜けるガード下。  上をJRと首都高が走ってる。

宵闇が迫りくる服部時計店銀座はこの時間帯が、一番美しいのかも・・・

完全に日が落ちた、4丁目。この頃になると、裏通りが

輝いて来る時間になる。 バブルの頃、人通りが多すぎて車は、表通り以外通行困難だった。

かつてお世話になった、おでん屋さん。おでんの事を関東炊きとも云う。かなり醤油色が濃い為に関西圏の人達は、塩辛いと思い、口にしないみたいで・・

有楽町駅南口ガード下。終戦からオリンピック開催の前当たり前まで、この辺は靴磨きを生業とする人達が多くいた。 近くの交通会館には靴を磨くと云う商いは残っている。

有楽町駅銀座側・・

天井のグレーの鉄板は東海道新幹線の床板。これを作る為に、此処に在った呑み屋街は全て立ち退く事になった。

ここはかつて、靴磨きの商い場所だった。

磨き屋に少年も多く、

宮城真理子の『ガード下の靴磨き』を思い出す。♪

都心にあるオアシス、喫茶ルノアール

決して安いとは云えないコーヒーなんだけど、ゆったりとしていて落着ける雰囲気がどの店にもある。 日本茶のサーヴィスも嬉しいです。

平成26年・今現在松坂屋は業務閉鎖中。隣のあずま通りまで潰して、再開発を施工中どんな複合商業施設になるのやら。

工事中の松坂屋跡地を

上から見下ろすと・

クリスマスですねぇ。一年で一番盛り上がる時期。 小生もこの地で、威勢よく働いていた頃、クルシミマスでした。(涙)

4丁目の御木本真珠店

1893年に創業者御木本幸吉翁が、明治26年・伊勢志摩の海でアコヤガイから真珠の養殖に成功した。世界初の事です。  今では、英虞湾に真珠島と云う大規模な養殖場を持っている。此処の地下にはレカンと云う、銀座でも屈指の直営の高級フランス料理店がある。   因みにレカンとは・宝石箱の意味だそうで。

銀座のビルとビルの間はこの様になっている。 この狭い人がすれ違うのがやっとと云う処に、隠れた名店がある。  昭和50年頃の話だが、こう云う路地裏の江戸前寿司屋に入った。  お昼時にも関わらず、3人で10万円近く会計した記憶がある。

 

銀座商店会の旦那衆、有志が設立した銀座タウン誌。 小生、銀座デビューは昭和38年。その頃には、既に店頭に置かれていた。 歴史ある小冊子である。

東銀座にある新橋演舞場。新橋芸妓衆により、演舞を開催出来る場として、大正11年に設立された。 後に新国劇がメイン公演し、澤田正二郎を中心として、辰巳柳太郎や島田省吾。緒方拳・大山克巳等々を輩出して行った。  蛇足だが、それに対して浜町明治座では、新派が隆盛を締めていた。花柳章太郎や水谷八重子、良枝親子など。

日比谷公園の噴水とここを取り巻く高層ビル群。

公園内の木々の中。廻りが酷暑の日でも木蔭は涼しい。

戦前の日比谷交差点。

晴海通りを桜田門方面に眺望む。 交差する道路は日比谷通り。

同じ場所から、現在の風景日比谷と云う住居表示はない。 日比谷通りを、千代田区の有楽町から内幸町に掛けての一帯を挿す。 開幕以前はこの辺りは江戸湾の入り江で、日比谷豪と云った。その名残が現在に続く。

現在の内幸町1-1番地にあった鹿鳴館。 完成は明治16年。  当時の明治政府は欧米列強に国力を誇示する為、欧風文化を取り入れつつ、最大の持て成しが出来る施設を望んでいた。この頃から料理も西洋化していった。

帝国ホテル・グランドオープン

の新聞広告。あれだけのホテルが

社会的記事になってない事が、びっくり

明治23年の開業。隣接する鹿鳴館と並んで、欧米人の接待に功を成し得た。大倉財閥2代目の喜七郎により好経営がもたらされ、後々川奈ホテル、ホテルオークラへと続いて行く事になる。

現在の帝国ホテル東京本館。 奥にはインペリアルタワーが見える。

愛知県犬山市の明治村に保存されている通称ライト館の正面玄関。

日比谷の交差点からほど近い二重橋。 天皇陛下のお住まいです

  【 合掌 】

帝国ホテルの脇をみゆき通り。

そこの真向かいに東京宝塚劇場

この風情は戦前のワンショット

こちらは現在の宝塚劇場

この劇場、元々は兵庫県の阪急電鉄創業者、小林一三翁が東京宝塚劇場として創設。 その後、映画の製作、配給を手がける(株)東宝を立ち上げるきっかけとなった場でもあった。

2001年にリニューアル完成。 みゆき座・スカラ座共に一つ屋根の下に入る。

上演及び、次回公演の案内ボード。

昭和5年、東京宝塚劇場は華々しく開場となる。 これはその時の風景。

この舞台は何組でしょう?

2011年にリニューアル

オープンした素晴らしい観客席。この劇場の年間稼働率はパーフェクト100%だそうです。お客様はほとんどが女性・・

昭和8年、開業時の

有楽町日劇(日本劇場)。 日比谷の宝塚劇場と共にNHK紅白歌合戦の会場になる。

昭和27年当時の日劇。 手前の線路は、民営化する前の国鉄山手線と京浜東北線。

昭和39年、この年オリンピック

が東京で開催される。 この少し前辺りから、ロカビリーブームが巻き起こり、今も元気な3人、平尾昌晃、山下啓二郎、ミッキーカーチス等が活躍。 その後ウェスタンカーニバルが全盛期を迎えGSブームへと移って行く。 浅草のSKDに対してNDT[日劇ダンシングチーム)を結成。年3回のレビューショーを開催していた。

昭和59年リニュアールされ

有楽町マリオンと改名される。 途中階までを阪急、西武の両デパートが営業していたが、平成23年に西武撤退。その跡JR東日本系のルミネがオープンした。

西武の社長だった堤清二は、長年の夢だった銀座地区への進出を果たしたものの、29年間で幕を下ろした。上層階にはマリオン映画街があり、7スクリーンの大ホールを有している

宝塚の隣にある日生劇場

日比谷日本生命ビルの中にある

完成時、1358の座席数が

有ったと云う観客席。

日生劇場が入る日本生命ビル。 完成は昭和38年。 当時新進気鋭の芥川賞作家、石原慎太郎と若き舞台演出家浅利慶太が東急の後藤昇に働きかけをして建ちあがった劇場。劇団四季は当初、この劇場を本拠地としていた。 越路吹雪が1970年代にチケット入手困難と云われたステージをロング公演した事で、有名になった。